吉浦神社(よしうらじんじゃ)

ご由緒
鍋島甲斐守直澄公は佐賀藩主鍋島勝茂公の三男にして元和元年(1615年)11月12日佐賀城にて誕生され、幼名を千熊丸と言う。生来英邁深慮にして、武勇にすぐれ、寛永12年直澄公21歳のとき江戸に参勤し、従五位下に除せられ任ぜられ寛永14年(1637年)島原の乱が起こると出陣し、これを鎮定され、寛永16年(1639年)直澄公25歳のときに父勝茂公より佐賀、神崎、西松浦、藤津の各地より三万五千六百二十五石を分かち与えられ、後に一万七千石を増し蓮池に封じ諸侯に列せられた。公は宗藩の制度にならい制度を整え藩政をよく治め善政を行い、水路、堤を築いて農業を盛んにし、学問、産業の振興につとめ、窯業、酒造業などを盛んにするなど領民のために献身され領民から深く慕われた。寛文5年(1665年)吉浦に別館を設け、剃髪して、義峰と称して老後を送られた。直澄公55歳のとき病にたおれ、寛文9年(1669年)3月5日、吉浦の館で逝去された。直澄公の遺骸は吉浦で荼毘に伏し、吉浦至誠山(現吉浦神社)に葬った。正献院殿義峰宗眼と謚した。延宝8年(1680年)庚申、至誠山、秀天霊社と称した。文政元年(1818年)150年祭が斎行され、大明神の称号を受け、以後吉浦大明神と称し崇拝された。明治初年吉浦神社と称し明治12年には郷社に列せられた。
住所
849-1425
佐賀県嬉野市塩田町五町田甲4003
御祭神
旧鍋島蓮池藩祖、鍋島甲斐守直澄公
電話番号
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営業時間
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標高
41m
社格
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系列
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